2023.05.07

むき出しの沖縄戦体験を聞く


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はじめに

 今から10年前の2013年8月、沖縄へ調査に向かった。博士課程に入学して初めての調査だったので、とても気合が入っていた。
 調査先は、沖縄県立図書館(以下、県立図書館)。目的は占領初期の沖縄で使用されていた、歴史のガリ版刷り教科書と思しき現物を確認し、写真の撮影をすることだった。

 教科書の調査は大きな収穫があった。その時に、研究者として同等かそれ以上に価値のある貴重な体験をした。それは、偶然出会った方から沖縄戦体験を聞いたことである。戦争体験などの聞き取り調査をする場合、通常は予めお約束をするので、相手もこちらも準備ができている状態である。だが、初めて全く(心の)準備なしに沖縄戦体験を聞いた。

 この体験については、大学の授業や講演会等の雑談で少し話したことはあるが、これまでに論文はもちろん、まとまった文章にしたことがなかった。思い出すだけでも、いまだに苦しさを覚えるほど衝撃が大きかった。だが、聞こうと思って聞ける話ではないうえに、自分のなかだけに留めておく性質のものでもないので、フィールドノートを片手に書き記しておくことにした。

 

沖縄戦体験談を聞くことになった経緯

 この話を聞いた2013年8月といえば、県立図書館がまだ与儀公園の裏にあった頃。郷土資料室の奥の部屋でお目当ての資料を閲覧し、撮影の作業をしていたところ、図書館を利用していた市民の方に声をかけられた。話を聞くと、占領期に作成された歴史副読本である、仲原善忠『琉球の歴史』を子どもの頃に使ったことがあるということで、お昼を食べながら聞き取りをさせていただく運びとなった。

 当時の県立図書館から農連市場は比較的近いこともあり、その方に農連市場の中にある小さな食堂に連れて行っていただいた。席は3席しかない。私たちが料理を注文して待っている間に、年配(80代くらい)の女性が1人で入店され、空いていた1席に座られ、奇しくも一緒に食事をすることになった。

 その女性は、最初店員さんと話をしていたが、そのうち明らかに私たちに聞かせるかのように、ご自身の半生について語りだしたのである。こちらはあまり質問などはしなかったが、話し始めて比較的早くに、沖縄戦の話題になった。

語り手の女性について

 同席した方が、語り手の女性(ここでは仮にAさんとする)について確認をしていたが、名前を含め教えていただけなかったのではないかと思う。

 Aさんの語りの中から、彼女について得た情報は、巳年生まれで、青年学校1年生の時(1944年)に徴用されたことくらいだ。沖縄戦(1945年)時点では15~16歳頃、話を聞いた当時は83~84歳くらいだろう。

 今帰仁小学校に通っていたこと、伊江島で徴用された(というメモが残っている)ようで、沖縄島北部の方のようである。当日は通院の帰りだと言っていた。2013年時点のAさんの情報は、全然語っていなかった。



Aさんの沖縄戦体験―フィールドノートのメモ―

 Aさんの語りについて、当時書いたフィールドノートのメモに沿って紹介する。今見返してみると、メモがあまりとれていない。話に圧倒されたことが要因である。よって散文的だが、記しておく。

 席に着くなり、Aさんは沖縄戦体験を語りだした。青年学校の1年生の時に伊江島で徴用され、空襲で飛行場が壊されたが、人には弾を当てないようにしていたと言っていた。

 戦闘が始まり、戦禍を逃れながら移動。おにぎりは1日1個で、サトウキビを折って食べていたそうだ。また、墓で寝泊まりをしていたとのことである。

 今帰仁に住んでいた人々は、大浦崎に連れていかれた。夜中に米軍が大型トラックに乗せ、どこに連れて行かれるんだろうと思いながら、収容所を移動していたそうである。

 日中は米軍が監視しているので、夜になると、男の子だけ本部まで歩いていき、ちり捨て場の缶詰を拾ってくる作業をしていた。そうやって何とか食べ物を確保していた。

 とにかく、米軍に捕まったら殺されると思って、恐怖だった。崎山に米軍の飛行場があり、日本軍が壊した橋を、米軍が1日で作り直していて、すごいなあと思ったそうだ。

 そして、戦争が終わったことは、米軍からビラがあちこちにまかれて知ったとのことである。

沖縄戦時の捕虜たち 1945年6月(沖縄県公文書館所蔵)



脳裏に焼き付いた語り

 Aさんの語りのなかで、私が今でも脳裏に焼き付いて、思い出すだけでも苦しくなるくだりがある。それは、夜に米軍の指示に従って歩かされていた時の話である。

 沖縄の住民たちが、おそらく短い距離の移動のために、夜に歩かされたそうだ。米軍によって整列させられ月明かりの田舎道を歩いていたら、後ろのほうにいた少年たち(Aさんと同世代位の10代の少年)が、少しふざけたそうである。

 少年たちがついふざけてしまうのはよくあることだとAさんも話していたが、その次の瞬間、銃声が響き渡ったそうだ。大変残念なことに、出来心でふざけてしまった少年たちに弾が向けられたのである。

 Aさんは、自分と同年代の少年が、少し気持ちが緩んだ瞬間、命が奪われ、当時とても動揺したことを興奮しながら、我々に訴えるように語ったのである。

Aさんからのメッセージ

 Aさんの話を聞いたのは小一時間くらいの短い時間のはずだが、とても長く感じた。Aさんが話し終え、食事も終えてAさんがお店を出る際に、短い会話を交わした。

 Aさん:「あんた、何してる人?」(何の仕事をしているの意味)

 私:「東京で中学校の教員をしていますよ」

 Aさん:「そうね。先生ね。子どもたちにいっぱい情けをかけてあげるんだよ」(と言ってぎゅっと手を握られる)。

 私は「はい」と答えるのが精いっぱいで、涙が止まらなくなり、しばらくAさんの手を握りしめ、そして別れた。


 戦争で同世代を目の前で失うという体験をされたAさんは、私が教員だと分かったとたん、子どもたちに愛情を持って接することを力いっぱい伝えてくれた。この話を聞いた後、沖縄での調査中はもちろん、帰ってからしばらく脳裏から離れず、思い出しては苦しくなっていた。

 Aさんが渾身の思いで伝えてくれたことは、一教員としてどこまでできているのだろうと、今でも時々振り返る。目の前の生徒や学生に、自分が力の限りを尽くしつづけることが、沖縄戦を体験したAさんからのメッセージに応えることになるのかもしれない。

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