2023.02.05

沖縄が日本と違う教育制度だったのは本当?

はじめに

 日本の戦後の新教育制度は、1947年3月に六・三・三制が制定され、同年4月に施行されました。実は、沖縄では、全国に先駆けて1946年4月から戦後初の教育制度が施行されたのです。しかも、日本が導入した六・三・三制ではなく、初等学校が8年間、高等学校が4年間の八・四制でした。

 したがって、結論から申し上げると、沖縄が日本と違う教育制度だったというのは本当です。ただし、沖縄の八・四制はたった2年しか存続しませんでした(※1)。1948年4月、日本と同じく六・三・三制へ変更されました。

 それでは、なぜ沖縄では日本と違う教育制度である八・四制が導入されたのでしょうか。アメリカの直接占領下だったため、アメリカの教育制度がそのまま導入されたと考えるのが自然かもしれません。ですが、当時の資料をよく調べてみたところ、そうではないことが分かりました。以下、研究成果をふまえながら簡潔にお伝えしたいと思います。


教育制度を整える前に始まった、戦後新教育

 沖縄戦の最中からアメリカ軍に占領されていた沖縄では、1945年4月以降、日本の教育制度下で教育を行うことが禁止されていました。その沖縄では、戦闘中にもかかわらず、可能なところから新たな学校教育が再開されていました。最も早かったのは、米軍が沖縄本島へ上陸してからわずか6日目、1946年4月6日に開校した高江洲初等学校です。

「米軍政府管理下で再開した学校」(1945年 撮影地:高江洲)(沖縄県公文書館所蔵)

 

 私が調査した結果によると、沖縄群島では1945年6月までに開校(再開)した学校は10校でしたが、同年7月には初等学校(小学校に相当する学校)が27校、高等学校が1校開校します。以後凄まじい勢いで増えていき、1946年3月末時点では、初等学校と高等学校合わせて137校存在していました(※2)。

 沖縄の戦後新教育は、まず学校の再開に始まり(1945年4月~)、教科書作成開始(1945年8月~)、教育行政機関の設置(1945年8月)、短期の教員養成機関である沖縄文教学校の設立(1946年1月)を経て、1946年3月に新教育制度八・四制が制定、1946年4月から八・四制の下、学校教育がスタートしました。
 つまり、制度を整える前に、実際に教育を再開せざるを得なかったので、制度の方が後になってしまったのです。

八・四制を導入したのは、アメリカの制度の直輸入?

八・四制導入の経緯

 それでは、沖縄ではどのような経緯で八・四制が導入されたのかを見ていきましょう。沖縄の戦後新教育制度について、最初に議題に上がったのは、1945年9月5日に開催された沖縄諮詢会協議会でした。この協議会において、当時の教育部長だった山城篤男が、中等教育段階の整備を主張しており、以後中等教育段階を中心に検討されました。

 その約一か月後である10月10日の諮詢会協議会で、山城が具体的な制度を提案します。それは、初等学校、高等学校、専門学校、大学を設置するという案です。各学校の年数は提案されていませんでした。10月31日の諮詢会協議会で、米軍政府側が「将来のために学校制度にするのが良い」(※3)と言っています。

 米軍政府と沖縄諮詢会が議論を重ねる中で、初等学校と高等学校を置くこと、高等学校は男女共学にすること、高等学校の第3,第4学年は実業教育を行うこと、実業的な高等学校を設置することなどが検討されました。

 

 1946年1月2日、米国海軍軍政府本部指令第86号「沖縄の教育制度」が発令されました。そこで、「6歳から14歳までの全児童に、8か年の初等教育を施す」ことが示されました。この時に、幼稚園についての言及もあり、幼稚園の設置を前提としていたことがうかがえます。なお、沖縄の新教育制度では、初等学校への幼稚園附設が原則とされました。

 同年1月25日の軍民協議会、3月4日の会議を経て、高等学校の内容および男女平等の方針が固まり、1946年4月に八・四制が施行されました。

「八」と「四」の根拠

 初等学校が8年、高等学校が4年になった理由については、沖縄師範学校教諭兼教授だった川畑篤郎が、沖縄師範学校事務代理の中村精行に提出した報告書「昭和21年8月記述 戦後沖縄の教育状況」に記されています。その一部をご紹介したいと思います。

(前略)まづ従来の国民学校はこれを初等学校と改称し、八ヶ年の義務教育、そしてこれに幼稚園を敷設することを原則としてゐる(中略)。従来の中学校・高等女学校は男女共学の四年制とし、これを高等学校と改称した。大体戦前の設置数を目標として設置している(後略)。

川畑篤郎「昭和21年8月記述 戦後沖縄の教育状況」(沖縄師範学校からの報告等 自昭和20年6月至21年11月」、1946年所収、4頁、国立公文書館所蔵)。

 八・四制の「八」について。「従来の国民学校」とは、国民学校初等科(6年)に国民学校高等科(2年)を合わせたものと考えられます。初等科のみ義務教育でしたが、高等科も合わせた8年間を義務教育にしたのでしょう。

 八・四制の「四」について。「従来の中学校・高等女学校」とは、1943年に出された中等学校令によって、修業年限が4年間になった中学校・高等女学校を指していると思います。新制度を定める直前の中学校・高等女学校が4年制だったことから、高等学校(ハイスクール)を4年間にしたと推定されます。
 

 8年制の初等教育、4年制の中等教育は、アメリカにもある制度です。そのことから、米軍側も違和感なく承認したと考えられます。なお、沖縄諮詢会と米軍政府の会議で、米軍側が八・四制を薦めるような発言はみられませんでした。戦時下の日本の教育制度をベースに、米軍側と沖縄側が議論を重ねながら両者の考えを融合させ、実情に沿って現実的に制定していったと言えます。

沖縄独自の教育制度を布いたものの…

 今回の記事では、沖縄では日本と異なる教育制度、初等学校8年、高等学校4年からなる八・四制を導入していたことを紹介しました。米軍側の強い要請だというイメージがあったかもしれませんが、半年くらいかけて米軍側と沖縄側が議論を重ねて現実的に定めていたのは、意外に思われたかもしれません。
 しかし、その八・四制は、たった2年で日本と同じ六・三・三制に変えてしまうのです。沖縄では、なぜたった2年で八・四制を廃止して、六・三・三制に変えたのでしょうか。そこには、沖縄側の日本に対する強い思いがありました。これについては、別記事で紹介したいと思います。

※1:八重山群島は、1949年4月から完全に六・三・三制へ変更。

※2:萩原真美『占領下沖縄の学校教育』六花出版、2021年、93頁。

※3:沖縄諮詢会「会議録2」1945年自8月至12月(沖縄県沖縄史料編集室編『沖縄県資料』戦後1 沖縄諮詢会会議録、沖縄県教育委員会、1986年所収、111頁)。



Contactご依頼 お問い合わせ

取材・講演・執筆などのご依頼や詳細に関しては、
こちらよりお問い合わせください