2022.12.18

沖縄戦直後の教員不足とその対応


はじめに

 沖縄戦によって灰燼に帰した沖縄では、教育の再開にあたってさまざまな困難がありました。そのなかでも特に、教材と人材の不足が深刻でした。

 教材の不足に関しては、沖縄独自の謄写版の教科書を取り急ぎ作成することで対応しました。詳しくは以下の記事に書きました。今回は、人材、すなわち教員不足についてどのように対応したのかについて、述べたいと思います。

 

沖縄戦直後の教員事情

 沖縄戦直後~1940年代後半にかけての教員数については、正確な数が分かりません。沖縄戦の惨禍や戦後の混乱で、統計を取ること自体が難しかったからです。また仮に統計を取っていたとしても、資料の散逸で確認することが極めて難しいです。

 藤澤健一の研究によると、1943年に国民学校(現在の小学校にあたる学校段階)に勤務していた教員が3,143人で、そのうち戦死者が352人、不明者が1,364人、終戦直後に教員をしていたことが特定できた「確定者」が814人、教員として勤務していたことが推定できた「推定者」が613人です。「確定者」と「推定者」を合わせると1,427人。戦前から戦後にかけて勤務していた教員は、1943年度のおよそ46%と推定されます(注1)。

 沖縄戦の直前と比べると、教員として残った人は半分にも満たなかったことを意味しています。これにさらに追い打ちをかけたのが、教員の卵である沖縄師範学校、沖縄女子師範学校の学徒動員です。勤皇鉄血隊師健児隊・ひめゆり看護隊等で沖縄戦の犠牲になったことは、言うまでもありません。その数から推定して、3,4年分の教職員養成が途絶えたことを意味する数だそうです。

 この数値は、戦前の沖縄県全体のものです。戦闘の被害が甚大だった沖縄群島の地域だと、40%台前半だったと推定されます(注2)。占領初期の沖縄は、奄美群島、沖縄群島、宮古群島、八重山群島の4つに分立していましたが、沖縄群島が最も教員不足が深刻だったと言えます。

短期間での教員養成の実施―沖縄文教学校の創設―

 

 とにかく教員が足りない状況だったので、それまで教員をしていなかった人の中から教員ができる人をかき集めることになりました。そこで白羽の矢が立ったのが、旧制中学校や高等女学校を卒業したばかりの人たちです。17、8歳という年齢で代用教員として教壇に立ちました。

 もちろんそれだけでは教員が全然足りなかったため、短期間で教員養成をすることにしたのです。そこで、1946年1月に、師範部・外語部・農林部からなる沖縄文教学校が創設されました。

開校直前の沖縄文教学校(1945年12月)(沖縄県公文書館提供)

 1946年1月に開校となり、1期生(1946年1月入学)は2ヶ月、2期生(1946年4月)は4ヶ月、3期生(1946年9月入学)は6ケ月間、1947年度~1948年度入学生は、1部(教員経験なし)の学生が1年間、2部(正規の資格がないが教員経験あり)は6ケ月で養成しました。

 1期~3期生の入学資格は、➀中等学校卒業者、➁師範学校予科修了者でした。特に1期はたった2ヶ月で養成しており、いかに教員不足がひっ迫していたかが分かります。なお、1期は102名入学しています(注3)。

ごく短期間での教員養成の方法

 現在の小学校教員養成は大学で4年間かけて行っていますが、沖縄戦直後ではたった2ヶ月で養成していたのです。そんなに短期間でどのように教員養成をしていたのか、開校時(1946年1~3月)の状況を紹介したいと思います。

「先生の先生」をどう工面したか

 教員養成にあたって、教員養成をするための教員、つまり「先生の先生」を確保することが喫緊の課題でした。1945年11月に米軍政府から文教学校を創るよう要請があり、島袋俊一が初代沖縄文教学校長として任命され、開校の準備が進められました。


 ところで、教員養成には教育実習が不可欠です。教育実習の場として、沖縄文教学校に附属初等学校が設置されることになり(以下、附小と略記)、附小校長に山城宗雄が任命されました。山城は1915年4月から沖縄戦を経て(若干のブランクあり)1961年3月まで、沖縄の小学校で教員を務めた人物で、戦前から校長を経験しています。また、戦前から戦後にかけて一貫して標準語教育に取り組んでいた人物としても知られています。

 

 山城の大きな任務は、附小の教員採用でした。子どもたちの指導はもちろんですが、教育実習の指導が十分できる力量のある教員を採用しなければなりませんでした。そこで山城は、方々に手紙を送り、沖縄本島中を駆けずり回って、選りすぐりの先生を探したのです。

 開校時には何とか7人を採用。いずれも沖縄の師範学校を卒業し、9~17年の経験を有する中堅教員を採用することに成功しました(注4)。戦後の大変な状況ではありましたが、少しでも良い教育ができるよう、附小の教員採用人事には強い思い入れがあったことが感じられます。

実習に特化したカリキュラム

 たった2ヶ月で教員養成をしなければならなかった文教学校1期生のカリキュラムは、いったいどんなものだったのかを見ていきたいと思います。

 当時のカリキュラムをみたところ、約1ヶ月で講義が終了し、残りの1ヶ月弱が実習に当てられていました。附小の開校日である1946年2月20日に実習が開始、3月15日に実習終了、翌日の16日が文教学校の卒業式というハードスケジュールでした。

 ただし、全員が1ヶ月実習をしていたのではなく、男子学生と女子学生が交代で行っていました。前半が男子学生(2/20~3/5)、後半が女子学生(3/2~3/15)でした。よって各自の教育実習の期間は約2週間でした。附小の教員と児童が少ないため、このような方法をとったのではないかと思います。なお、男子学生が実習中は、女子学生が見学をし、女子学生が実習中は男子学生が見学をするということは行われていたようです。

沖縄文教学校(沖縄県公文書館所蔵)。このテントが、教員寄宿舎または文教学校学生の寮として使われていた。

 

 教育実習は附小だけではなく、2日ほど附小以外の学校で実習を行う「地方実習」がありました。少しでもいろいろな経験が積めるように、附小以外での実習を取り入れていたと思います。

 実習中のスケジュールですが、午前中が教壇実習、午後が学校内の作業や指導教員から指導を受ける時間だったようです。一度に50人強の学生が実習にくるので、担当教員は平均して7~8人の実習指導をしなければなりませんでした。教育実習生を1人担当するのでも大変なので、そのハードさは計り知れません。

 参考書や教科書などもほとんどなかったため、担当教員からの直接の指導が頼みの綱だったそうです。指導教員も丁寧に指導案の添削をしたり、校長の山城も実習要録に目を通し、熱心に指導に当たっていたようです(注5)。

劣悪な状況だったからこそ、ベストを目指す

 沖縄戦の直後は極度に教員が不足し、とても十分な教育を行える状況ではありませんでした。しかし、当時の沖縄の人々は、師範学校を卒業し中堅教員だった人物をかき集め、その教員たちに自分たちの出せる限りの力を発揮してもらい、短期で教員養成を行い、学校現場に送り出すことを必死でやっていました。


 教員の卵である文教学校の学生も、その先生方の熱意に必死に応えようとしていました。教材・教科書・資料もほとんどない中、教員経験がある先生たちが唯一の頼みの綱でした。学生たちは、そこから学びとれることはすべて学ぶという姿勢で臨んでいたと思います。

 その短期間の教員養成を経て、沖縄の新学制が始まる1946年4月、100名ほどの教員が教育現場に羽ばたいていきました。そうして学校に着任した教師たちが、必死に子どもたちの教育に携わったのです。

 短期間での教員養成で培った知識や技能は、不十分だったかもしれません。しかし、資料を見る限りでは、当時のベストを尽くしたものだったと思います。教員たちのその姿勢が、子どもたちにもきっと伝わったことでしょう。

注1:藤澤健一編『移行する沖縄の教員世界―戦時体制から米軍占領下へ』不二出版、2016年。

注2:萩原真美「占領下沖縄における戦後初の小学校教育実習―沖縄文教学校・同附小が果たした役割―」『教職実践センター年報』令和3(2021)年度、2022年、215頁。

注3:沖縄文教学校『創立一周年記念 学校要覧』沖縄文教学校、1947年。

注4:萩原真美前掲論文、220頁。

注5:萩原真美前掲論文、220-223頁。

 

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