2023.02.26

全学年必修だった占領初期沖縄の英語教育

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はじめに

 占領初期の沖縄では、1946年度から初等学校8年、高等学校4年からなる八・四制が布かれ、戦後の新教育が始まりました。日本の教育とは切り離すことが目的だったので、日本の教育内容とは異なっていましたが、そのなかでも特徴的だったのが英語です。

 沖縄では、英語が初等学校第1学年(現在の小学校第1学年に相当)から高等学校第4学年(現在の高等学校第3学年に相当)までのすべての学年で必修だったのです。当時の日本では、中学校から英語を学んでいたので、現在の小学校1年生から必修だったというのは、特筆すべきことだと思います。

 ただし、全学年必修だったのは、1946年度から1952年度頃までと推定されています。「小学校英語は53年度11月のカリキュラムから姿を消す」(注1)とあることから、1953年11月時点では、小学校において英語は必修ではないとしているのですが、通常年度の途中で科目をなくすことはしないので、1952年度と推定されます。

 それでは、小学校1年生に相当する学年から必修だった沖縄の英語は、どのように位置づけられていたのか、その概要を書きたいと思います。

1945年5月の地元学校の児童(沖縄県公文書館所蔵)

八・四制下(1946年4月~1948年3月)の「英語」

初等学校

 八・四制下では、人文科のなかの一つの科目として位置づけられていました。八・四制の科目は以下の通りです。

  • 人文科(公民、読方、歴史、地理、英語
  • 理数科(算数、理科)
  • 体育科(体錬、衛生)
  • 芸能科(音楽、図画、工作)
  • 生産科(農業、水産、工業、商業)
  • 家政科(裁縫、家事)

 英語は、1年生から4年生は週1時間、5年生から8年生は週2時間配当されていました。

高等学校

 高等学校も初等学校同様、人文科の一科目として位置づけられていました。八・四制下の科目は以下の通りです。

  • 人文科(公民、文学、歴史、地理、英語
  • 理数科(数学、物象・生物)
  • 体育科(体錬、衛生)
  • 芸能科(音楽、図画、工作)
  • 生産科(農業、水産、工業、商業)
  • 家政科(被服、家事)

 英語は、男子と女子で時間数が異なっていました。男子が週6時間、女子が週4時間です。科目全体で男女で若干時間数が異なっています。

実業高等学校

 八・四制下の学校は初等学校と高等学校だけではなく、1947年2月に設置された実業高等学校(4年制)という学校が存在していました。実業高等学校は、高等学校は初等学校を卒業した者で高等学校に進学しない一般青年男女が通う学校です。ただし、わずか約1年(1948年3月)で廃校します。実業高等学校については別記事で詳しく書く予定です。

 実業高等学校でも英語はやっており、普通科(人文、英語、理数)に位置付けられていました。時間数は、男子が週2時間、女子が1,2年生が週2時間、3、4年生が週1時間でした。

六・三・三制下の「英語」

 1948年4月から、沖縄も日本と同じ教育制度である六・三・三制を導入しましたが、科目は若干異なっていました。日本では小学校に英語はありませんでしたが、六・三・三制導入後も、沖縄では英語がおかれていました。

 六・三・三制導入時(1948年度)の初等学校英語科の配当時間は、1~3年生が週2~3時間、4~6年生が週3~4時間でした。

 中等学校では、各学年とも週4時間で、日本と全く同様でした。

 高等学校に関しては、六・三・三制導入時の教育課程の現存が確認できていません。英語があったという記録はありますが(注2)、時間数等は不明です。おそらく当時の日本と大きな差はないと思われます。

 ちなみに、学校段階の名称も当初日本と異なっていました。日本では小学校、中学校、高等学校でしたが、沖縄では、初等学校、中等学校、高等学校と言っていました。中等学校という呼称は、1953年度末まで使われていたそうです(注3)。初等学校が小学校と称するようになった時期は判然としませんが、中等学校を中学校と改称したのと近い時期と推定されます。

 

教科書はどうしたの?

 戦前は小学校(国民学校)で英語教育をやっていなかったので、新たに教科書をつくる必要がありました。八・四制下では、児童用の英語のガリ版刷り教科書はなく、教員用のみだったので、1945年から1948年までは、児童は教科書がないまま授業を受けていました。
 六・三・三制に変わった1948年度以降、ガリ版刷り教科書を廃止して、日本の教科書を輸入して使うことになりました。小学校用英語教科書がなかったので、児童用のガリ版刷り教科書が配布されました。初等学校4年まではガリ版刷り教科書を、5・6年は日本の中1の英語教科書を2年かけて使用させている状況があったようです(注4)。

 ガリ版刷り教科書については、以下の記事をご参照ください。

 

 

1953年頃に小学校英語教育が終焉した理由

与那覇恵子によると、小学校英語教育不継続要因として、以下の5つを指摘しています。

 ➀教科書不足

 ➁教員不足と質の低下

 ③米軍政府の英語教育者不足

 ④英語国語政策への沖縄人の反対

 ⑤米軍の対沖縄政策の変化

 そのうち、与那覇は、⑤の米軍の対沖縄政策の変化が決定的な要因だとしています(注5)。なお、➀、➁は英語に限らず全般に言えることです。

 与那覇は、⑤が決定的な要因について、米軍の対沖縄政策の変化、具体的には沖縄の言語政策の転換を挙げています。サンフランシスコ講和条約締結の結果、米軍は沖縄の言語政策を日本における言語政策である「被占領地における母国語の使用を強制的に制限することなく占領者側の言語を第二言語として浸透普及させる」に準じたと述べています(注6)。

占領初期沖縄の英語教育を調べてみて

 私は英語教育の専門家ではないので、ここでは詳細な議論は差し控えますが、言語政策の転換という要因はあったと思います。その一方で、そもそも沖縄の初等教育段階の子どもたちに対する英語教育が、何を目的としていたのかを考えてみる必要があると思います。

 沖縄に対しては対沖縄占領教育政策方針が打ち出され、その方針の一つに「親米」が挙げられ、その一環として英語教育が実施されたと考えられます。1946年に出された「初等学校教科書編纂方針」(注7)のなかにも、英語教育に関連することとして「米国に関する理解を深めること」「ローマ字を採用すること」「高学年において英語を課し将来における実生活に資すること」とあります。

 先に述べたように、時間数も週に1~2時間程度と短いです。よって、占領当初から英語教育に力を入れていたとは考え難いのではないでしょうか。親米政策の一環として英語教育の実施自体に意味がある、つまり、一種の「ポーズ」だったように思えます。「ポーズ」であった故に、沖縄が、日本の教科書や教育課程に準じて教育をすることになったのに、わざわざ英語教育をやる必要性が感じられなくなり、教員や教科書等の不足も手伝って、小学校段階ではなくしたのではないかと思っています。

注1:与那覇恵子「米軍占領下の沖縄(1945~1953)における小学校英語教育 必修の小学校英語教育はなぜ継続されなかったのか? 」『名桜大学紀要』第19号、2014年、40頁。 

注2:Headquaters 526th counterintelligence corps detachment Ryukyu Command,apro 331 “A MONOGRAPH ON THE OKINAWA EDUCATIONAL SYSTEM”15/5/1948.

注3:萩原真美「占領下沖縄群島における新制中学校の設立に関する研究」『財団創立70周年記念 野間教育研究所調査研究論文集』2022年、26頁。

注4:与那覇恵子前掲論文、35頁。

注5:同上、39頁。

注6:同上、40頁。

注7:琉球政府文教局研究調査課編『琉球史料(第三集)』琉球政府文教局、1958年所収、246-247頁。

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